まなざすということ
ロロという劇団の、「いつ高シリーズ」という作品群がある。
「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」の略が、「いつ高」、
テーマは【まなざし】である。
まなざし、という言葉と、視線、という言葉は同じ意味なのだろうか。辞書の上ではどうなのだろう、でも、
「いつ高」に出会ったわたしにとって、まなざしは、視線とは違う意味を持つ言葉になった。
いつ高では、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、登場人物が、ありとあらゆる形で、だれかを思い、誰かとつながっていく。
たぶん、見ることは必ずしもまなざすことではなくて、
見えない誰かを見ようとする、
いま、ここにはない、誰かの声を聴こうとする、
見えないところから漂う匂いにだれかを思う、
そのとき、誰かはだれかのことを考えていて、その、心を誰かに向けるということが、まなざすということなのではないだろうか。
そしてそのまなざしは交わったり交わらなかったり、時空を超えたりその場に残されたり拾い上げられたりしながら、ずっとずっとそこにある。誰かが誰かをまなざしていたという事実はずっとそこにある。
あのときあの場所にいた彼らと、彼らのまなざしは、わたしの中の「まなざし」が持つ意味を変えた。
だからもう彼らのまなざしはわたしの中に残ってしまったし、そうしたら、わたしが彼らをまなざしてしまったという事実も消えない。
たった60分の積み重ねしか共有できなかったのに、もっともっと、気の遠くなるような時間を刻みこまれてしまったような気がする。
まなざすことは、きっと簡単なことではないのだけれど、でもだからこそこんなにも強い力を持っている。