不在の存在
1ヶ月ちょっと前、それはとてもとても濃くて目が回るような2日間が終わっていこうとしていた夜のこと。
高校同期何人かで構成されたライングループが動いた。とても久しぶりに。実はもうその繋がりが私にとっては少し煩わしくて、でも抜けてしまうのもカドが立つ気がして、ずっと抜けられずにいたグループだった。
既読をつけずにいるのも気持ち悪いので、いつものように何の気なしに開いた。
そこには、友人の訃報が記されていた。
彼が、死んだ。実感なんてものは全くないのに、何かわけのわからないものにのまれていくような感じがした。
ああ、これはまずい、と思った。
すぐに友人と恋人に連絡をした。大切な人たちに繋ぎ止めてもらっていなければ、どこか遠くに私の心が行ってしまうような気がした。怖かった。友人の死を悲しむ気持ちより先に膨れ上がったのは恐怖だった。
こうして突然に誰かがいなくなるということがあるのだということが、ほんとうにほんとうに怖かった。
さっきは「繋ぎ止めてもらっていなければ」と書いたけれど、もしかしたら私も彼らがここにいるという事実を繋ぎ止めていたかったのかもしれない。
あの日からずっと、折に触れて、彼がもうそこにいないということを強く感じさせられて、どうしようもない気持ちになる。
それがとても苦しくて、たまに耐えきれず泣いたりした。
そして今日、
「死者」の存在についての話が授業で出て、この、「不在」の話をした。「死者」を思うとき我々はかつてそこにいた人の「不在」を思っているのではないだろうかと。
先生がおっしゃった、「そこにあるものすべてにその人の不在がへばりついている」という言葉が、やっと、私のこのどうしようもなかった気持ちを説明してくれた。
私がこの文章を書いたのは、一度言語化してこの気持ちを残しておきたくなったからで、それはこの授業のこの瞬間があったからだと思う。
距離を取ってしまっていたくせに、こうしていなくなってしまったらこんなにも悲しんでしまうのは、とても気持ちの悪いことのような気もしていた。それも苦しかった。だが、似たようなことを経験した人もいるのだということも知った。少し楽になった。
これから先もずっと、彼の不在はそこにあり続ける。まだその不在とうまく付き合っていく自信はない。
まなざすということ
ロロという劇団の、「いつ高シリーズ」という作品群がある。
「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」の略が、「いつ高」、
テーマは【まなざし】である。
まなざし、という言葉と、視線、という言葉は同じ意味なのだろうか。辞書の上ではどうなのだろう、でも、
「いつ高」に出会ったわたしにとって、まなざしは、視線とは違う意味を持つ言葉になった。
いつ高では、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、登場人物が、ありとあらゆる形で、だれかを思い、誰かとつながっていく。
たぶん、見ることは必ずしもまなざすことではなくて、
見えない誰かを見ようとする、
いま、ここにはない、誰かの声を聴こうとする、
見えないところから漂う匂いにだれかを思う、
そのとき、誰かはだれかのことを考えていて、その、心を誰かに向けるということが、まなざすということなのではないだろうか。
そしてそのまなざしは交わったり交わらなかったり、時空を超えたりその場に残されたり拾い上げられたりしながら、ずっとずっとそこにある。誰かが誰かをまなざしていたという事実はずっとそこにある。
あのときあの場所にいた彼らと、彼らのまなざしは、わたしの中の「まなざし」が持つ意味を変えた。
だからもう彼らのまなざしはわたしの中に残ってしまったし、そうしたら、わたしが彼らをまなざしてしまったという事実も消えない。
たった60分の積み重ねしか共有できなかったのに、もっともっと、気の遠くなるような時間を刻みこまれてしまったような気がする。
まなざすことは、きっと簡単なことではないのだけれど、でもだからこそこんなにも強い力を持っている。
東京は戻る場所か
帰省が終わる。東京に戻る。
高校同期が、東京は「戻る」場所だと言っていた。そうだなぁ、と思った。
言葉とは不思議なものだ。それを見て以来、意識的に「戻る」と言うようになってしまった。
その「戻る」場所は、もう見慣れていて、すぐに思い描くことさえできるのに。
東京はいつ帰る場所になるのだろうか。もしかするとずっと戻る場所なのかもしれない。
でもむしろそれが心地いいのかもしれない。いつまでも標準語が使いこなせないことと似ている。ような気もする。